0と1で書かれて感想

 ずっと後回しにしてきた切れた電球を交換した。思ってたのとは違うちっこい電球が届いてしまったが、返品もめんどくさいし電球なき生活よりは100倍良かったので、そのまま使うことにした。

 

 最近はよく言葉について考えている。言語、言葉どちらも。言語に重きを置いて考えるときはナショナリズムを意識して考察する傾向がある。そして言葉について考えるときは感情について思うことが多い。今まで歳を重ねて気づいたことだが、やはりどちらかに属さず生きていくことには無理があると思う。属さないにも「属さない」という項目に属さなければならない。属さずには生きていけないことがわかった今、私はどのように生きていけばいいんだろう。属することの倫理を考えながら、生活に対する考えの重さを調整している。自由は何もない状態ではなく、キリがなく複雑な条件の中でどれを自分のものとするか束ねる力、そしてその状況の中で成り立つものだと考えられる。

 

 物理学においても、美学においても「時間」という概念はとても興味深くて、移動中や帰り道でついつい考えている。この前読んだカルロ・ロヴェッリの『時間は存在しない(おすすめ)がとてもおもしろくて、それに基づいて今までの捉え方を捉え直している。〈今〉を実感せずには不安で生きられない人間という動物。その足掻きの中で芸術は生まれ、学問も編まれただろう。私は、映画という表現方法を「時間の美学」と定義している。そのため、どれだけ苦しくても倍速にしたり、シーンを飛ばしたりしない。監督が設けた世界の中に浸ること。それが私にとって「映画を観る」ことである。

 映画をつくることは、〈時間〉を編み出すことである。数多くの粒子の中で、過去と今、そして未来をつなげる素材を丁寧に選び出して、カメラのレンズに写す。この過程で粒子は存在することになり、海馬を通して記憶として脳内に刻まれる。映画の魅力の一つは、時系列に並べなくても良いことだ。そしてもう一つは、視座や視野の調整しやすさである。このテクニックは、現実では簡単に味わえない快楽を与えてくれる。要するに、秩序が可視化あるいは感知できるようになるのだ。妥当であるか、妥当ではないか、自分の基準で判断できる。監督がつくった世界の時間と観客の時間の軸は、ある一定の場で交差し、その個々人の世界を理解する手がかりに生まれ変わったりする。

 自分の時間を構成していくことがつらいとき、私は映画の世界に逃げる。時間の構造を学び、自分の世界で真似し、自分の時間を再構築していく。この文脈で映画は私にとって魚のエラみたいなものだ。

 

 生きづらさを武器としない生き方がいい。でもどう回避しようとも、結局誰かを刺してしまうだろう。そのときは素直に自分も傷つくべきだ。というか、傷つきましょう。