だからと言ってあの頃に帰りたいというわけではない

 最近はよく「生きづらさ」について考えている。その理由としては、実際に生きづらいという感覚を持っているからではなく、学生の頃(中学、高校)はここまでその言葉を気に留めていなかったなーと思ったからだ。もちろんのこと、生きてて辛いな〜という感覚はある。しかし、ここまで意識したことはなかったように感じる。昔は、落ち込むのではなく、乗り越えようと頑張っていた。その場として学校は完璧だった。気の合う友達に毎日会えて、また何気なくおしゃべりもできる。お腹が空き頃には給食も出る。放課後は、友達の家や近所のロッテリアに行き、日が暮れるまでそこでおしゃべりをした。ロッテリアに行かない日は、友達とネットカフェ(韓国のネットカフェはオンラインゲーム専用のお店である)に行き、日が暮れるまで一緒にゲームをした。だから、生きづらさが生活に伴ってても、無垢な笑顔が自然と作れたし、実際に心から笑っていた。入試に絡まれない学生時代は至福なものだった。

 

 大学入ってからはそれがうまくできなくなっている気がする。うっかり言葉にしないことの重要性に気づいたからでしょう。社会に受け止められる大人になった証拠とも思えるが、本や人生の先輩のお話を聞いて、そうでもない気がする。社会の言っている、いわゆる大人はどこか歪な面があって、多分それをそのまま鵜呑みにして歳をとってしまったら、社会の良くない負の連鎖に身も精神も奪われそうである。学校とは違く、社会(学校ではない空間)では自分の席は自分で作るしかない。誰か作ってくれないかなと、順番を待っていても、それの感知できない人に奪われるだけだ。

 

 個性、失ったか、できたことすらないのかと思える、自分の個性。それを勢いよく押し付けるしかない。最初は確かに歪んだ存在としてみられるかもしれないが、残されるのは結局こっちである。尖った部分は時間により侵食され、個性という宝石として磨かれる。図々しく思ったら勘違いだ。これはある種の戦略である。図々しさもクソもない。

 

 思いやりは、一見神聖なものとして思われる。が、なんだかうさんくさい面もあると思っている。ハンドルは切ったものの、その方向性や新しい道がうまく作れるかは少し不安である。