お昼ごはんで食べたガボチャサラダと醤油漬けニンニクが美味しかった

思った通りにはならなかった一日。

でもこのような日があってもいいんじゃない?

 

確かに気持ち的には落ち込んでいた。だってこうしたいのに、体が全く言ってることを聞いてくれなかったから。でもそのおかげで一日中寝れたし、朝昼夜ご飯ちゃんと食べれたし。本当に何にもしない日だった。こうであってもいいか、正直わからなくてずっとスケジュール帳やLINEを確認した。でも、何も書いてなかったし、何も届いてなかった。本当に休んでもいいんだ、と少し安心した。いつから休むことに怖さを覚えたんだろう。

 

休みの日にしろ平日にしろ、何かやっていないことはないだろうか、そして忘れていることはないだろうか、と心がソワソワする。いつも休みたいな〜とは思うけど、実際には休めない自分がいる。休むことに不安を覚えて、何かしろやることを探してしまう。都市で生まれて生きてきた私の宿命なのかもしれない。だから、ゆったり休める人、目標に暴走せず、メリハリをつけて進める人への憧れがあるのかもしれない。雑誌を読むとか、長時間お風呂に入ることなんて、憧れてはいるけど中々実践できない。大袈裟に言ってしまうけど、すぐタメになる本を好む傾向がある。わかりにくいことの価値をある程度気づいていながらも、やはりわかりやすいことを求めてしまうのだ。

 

これは、資本主義にシステムによって持ち込まれた不安かもしれない。多くの本もそうであると語る。しかし、この不安や忙しなさは、実は学校から来たのではないかと、うっすら疑っている。学校という場を疑い消滅を主張しているわけではない。そのカリキュラム、あるいは学習過程に違和感を覚えているのだ。

 

私はイメージだけを求め続けているかもしれない。他人に名乗れる教育タイトル(例えば学校名)、キラキラの職場、素敵な家…。その本質について考えたことはあるだろうか?ただ忙しいことを理由に、他の人もそうだから、みんな我慢しているから、あるいはこの違和感は自分だけが感じているのかもしれないと思い込みながら、それに対する判断や行動の変化を後回しにしてしまったのではないだろうか?私はそうであった気がする。実は今もそうだ。

 

Twitterで高桑和巳の『哲学で抵抗する』の一節に出会った。「叩かれて「痛い」と言うこと、これはすでに抵抗です。それ自体には何の意味もないと取られることもあるし、そもそも効果がまったく想定されていないことも多い。しかし、「もう、こんなことはいやだ」ということがおのずと発せられている。抵抗というのはそういうものです。」

 

今日の文章は、ただの自分の儚い言葉にすぎないかもしれない。しかし、これからはそういった自分の言葉を大切にしていきたい。何の意味もなくても自分の思ったことを、言語化したい。口にしてみることが最も大事だろう。

 

これは自分が社会学を学び愛する理由にもつながる。社会学にハマったきっかけは、すべて研究会のおかげだ。その関係の中で学問に出会ったからこそ、夢中になっただろう。これは先に断っておく。そして、ミルズの「社会学的想像力」のおかげだ。その概念がなかったら、私はすべての現象のことを個人のせいにする人間になったかもしれない。誰もが社会的存在であること、そしてその影響力のもとで生きていること。個人だけではなく、その社会があること。これが私の社会学を学んで最も嬉しいことだ。人の向こうにまた人がいること。今まで見えなかったことが見えたこと。

 

今日は読書会があった日だった。学校では読まない本を読んで、感想を話し合った。今回は10代から50代まで、多岐にわたる世代が参加している。そのため、私とは異なる世代、環世界の中で生きていく人の意見もたくさん聞けた。今日一番記憶に残っている発言者は20代初の子で、今まであまり本を読んでこなかったと言った。そのため、まだ本を読むのに多くの時間がかかり、退屈で仕方ないときもあるそうだ。しかし、参加して一番嬉しいこととして、自分の考えについて語れるようになったことを挙げてくれた。自分の考えていることについて語ること、ある意味当たり前でごく単純なこと。しかし、その子の話を聞いて、実は当たり前なことでもなかったし、そこまで簡単でもないことがわかった。その子は当然ながら高校までの義務教育も受けた。しかし、自分の意見についてはあまり述べたことがなかったという。私も同じ教育を受けた身として、こちらについて頷かずにはいられなかった。

 

とにかく、そのような日でした、ってこと。人生の変曲点で多数の意見に流されずに生きられるだろうか。まずは、自分の魂で語ることからだろう。

 

自分が限られてしまうにもかかわらず、書いてしまうこと。それは、書かないとやはり忘れてしまうからだろう。嬉しいこと、その時は気づいてなかったけれど、やはり覚えておきたいことをできる限りたくさん記憶したい気持ちがあるからだろう。だから、私は自分の毎日を言語化し記録として残しておく。自分が受けてきた愛を記憶するために。記録しておくと、日常のふとし瞬間にそれが頭によぎることがある。目に見える現実に惑わされず、目に見えないことも味わえる。これは自分の優しさの根源である。