副産業物

好きだから語りたい。語りたいから好き?←人間がよく繰り返す認知エラーの一つ。今井さん曰く、対称性バイアス。

 

手書き文字とこのフォント文字の一番の違いは、全くテイストが異なることだ。パソコンで何か文章を書こうとしても、考えていることとは全く違う内容をよく書いてしまう。悪いことではないだろうが、書き手のこちらとしては寂しいのだ。私はこのパソコンを開けるまで、雑誌の好きなところについて書こうとしていた。しかし、いざ打ってみると、今のように想像もしていなかったことについてつい書いてしまう。手書き文字は使いたいスペースや文字の形などを自由に操作できる。考え通り再現できないかもしれないが、自分の考えに似た形で写すことができる。しかし、パソコン文字は正比例でとても安定している。だからすらすら書けるが、今自分が何を書いているかあまり意識できない。漢字を間違えても、文章のテンポが悪くても、消して書き直せば良いのだ。考えがまとまらない時は、この書き方の方が確かに落ち着く。何かを書いている感覚に頼れるからだ。しかし、自分の話はどうしても手書きで書きたくなる。手で書いた文字や文章が気に入れば気にいるほど、自分に対する愛着も湧いてくる。生きている証とも言える。

 

さて、雑誌について書こう。

私はなんで雑誌が好きなんだろう。そこまで読んでもいないのに不思議なことだ。まず、憧れる理由として雑誌ならではのレイアウトが好きなことがある。ごちゃごちゃしていて、妙に整っている感じが好きだ。私の脳内とも似ている。色んなものがごちゃごちゃ混ざっているが、私からするとちゃんと整理されているのだ。私の脳内の場合は、見栄えは確かに悪いだろうけれど、雑誌はそれを乗り越える。乗り越えて、その自身ならではの個性としてやりこなす。私はそれに惹かれていたのだろうか。

次に、本よりは読みやすくて映画やビデオといった動的なメディアよりは重いからだ。本も憧れの存在である。しかし、なかなか手が届かない。読み始めると楽しいが、その「読み始める」までの時間がどうしても長くなる。YouTubeや映画などももちろん優れた読み物の一つだが、疲れることが多い。見過ぎるとなんだか飽きてしまうのだ。この本と映画の真ん中の役割をしているものが、記事やコラムだろう。しかし、記事は暗い内容に晒される恐れがあって嫌だし、コラムは確かに専門家の文章に触れることはできるが、本並みの壁がある。雑誌は、本と動画の間、記事とコラムよりも軽い読み物としてその役割を果たしてくれる。何かを読んでいることからくる満足感、それっぽい教養たっぷりの情報に接する高揚感、写真を通して行うウィンドウショッピング。教養知識よりは軽い。しかし、その軽さがくれる重みは案外おいしいのだ。

箇条書きになっているから嫌だが、最後に、私が簡単にアクセスできない世界のことを色々教えてくれるところが好き。私は、忙しい。雑誌が紹介する場所へ、趣味へ、お店へそんなに頻繁に時間を割愛していけない。つまり、私の手にできる知識や情報には限りがあり、なお私よりの偏向的さも含んでいる。しかし、雑誌は教養ぶりから出る第三者の視点があり、私のよくいけないことやものについて行って、それを伝えてくれる。だから、好きだ。

 

卒プロの制作物として、漠然と雑誌が作りたかった。これで作れたら、雑誌作りを続けて良いと思う。しかし、作れなかった場合、雑誌作りはもうやめて、また消費する側に回らないといけない。私の仕事ではないからだ。私はこの発想からいかなるものを作り出すのだろか。これからが楽しみだ。