むらかみ

 生きていると、どうしても眠れない日が訪れる。今日がその日だ。多分原因としては、20時頃に飲んだ抹茶のせいだろうけれど…。ヨーロッパではいくらコーヒーを飲んでも眠れないことはなかったから、やっとカフェインが飲めるようになったかと油断した。全然ダメでしたって話。

 

 村上春樹、さんは小説家としてよく知られている方だ。私も彼を小説を通じて初めて知った。私は、村上春樹、とした名前をしている彼が好きだ。恋愛的な感情ではなく、その言葉の語感がいいから、なんだか形容できない好意をもってしまう方の感情に近い。彼の名前がついた作品はつい読んでみたいという欲を呼び起こす。『ノルウェイの森』のように、彼の作品は傑作に違いないだろう。ここで面白いことが、私は村上さんの作品を読んだことがないことだ。読んだことはあるかもしれない。しかし、覚えていないのが現状である。私はその、村上春樹、という語感に惹かれて今まで漠然とした好意を寄せているのだ。そう思うと、世の中って理不尽だな。名前だけで、あまりにも語感が良い名前だけで、こんなにも簡単に親近感を覚えられるとは。と、つい思ってしまうのだ。

 

 確かに私は村上さんの小説は読んだことがない、あるいは覚えていない。でも彼のエッセイはとても好きで、本屋で見つけるたびに購入している。率直だけどなんだか距離感のある彼の淡々としてる文章が好きだ。語感による親密感もあるかもしれないが、エッセイに対する感情は偽りがないと断言できる。

 

 好きなことについて語ること、言葉を紡ぐことで食っていくこと。それは、あるテーマについて淡々と文章を作ることを表すのではないか。実際に彼は静かな性格かもしれないが、彼の文章は人の顔なんて伺わない、とても唐突な文章だ。媚びることなく、正解らしきものを書くのでもなく、彼自身が思ったことを鋭く、時にはだるそうな感じで描き出す。私はそれにハマったかもしれない。

 

村上さんという人は好きじゃないけれど、村上さんの作る村上さんは好きだし、その筆名も、文章も好きだ。

 

つらつら文章を書いていると、私には辛い記憶に襲われることがある。辛かったけれど、辛かったとは言えない記憶ってみんなもっているんじゃないかな。私はもっている。多分周りのことを気にしているからだろう。わかっているけど、中々治せない癖である。私はなぜ辛かったんだろう。そしてまだその感覚を引きずっているのだろう。若さゆえには、どうにもできない記憶だ。

 

文章を書くより、文章を作るという表現の方がよりしっくりくる。私は作っているのだ。文章を、この私の考えを叫び出すために。叫びたくても叫びない、この届くところのないことを発散するために言葉を紡いでいる。この糸がいつかは自分を救ってくれるのでないかと期待してしまう。

 

好きとか、好きじゃないとか。そんなの、私には難しいよ。ずっと受け止めて欲しいと願ってしまうのです。

 

30万ほど買い物をして感じたことは、資本による物理的な快楽は私の中にある穴を完全には埋められないこと。ないよりかはあった方がいいけれど。