豆の力

疲れてしまうと、最初に言語を失うことを実感した最近。

 

言語化をやめてしまったのは、多分その言葉の伝わらなさをなんとなく感じ取ったからだと思う。自分がどう足掻いて、言語として自分の感じていることを置換しても、流されてしまうことをわかっているから、たとえ現実がそうはならないとしても、そう予想してしまうから、そのから脱力感を持って何も言わなくなってしまったのかなと。確かに誰かとつながっていることは大変な側面もありつつ、そのような状況から脱するようにしてくれるのも、また人とのつながりである。この複雑で呪いで祝福なのとこれからもうまく付き合っていけたらなー。

 

でも、やはり、言葉として残しておきたい。私の不器用さ、そして体得したことを省察しながら、勇気をもって向き合っていきたい。そこには他者によるものも、自分によるものもきっとあるはずだ。認めずなかったことにするのではなく、まるごと飲み込んでいきたい。それが私の「学問」である。学ぶだけではなく、問うてもいきたい。この問いの過程は誰でも関与できない自主的な過程である。

 

まず、私が最も辛かったことは、自分の思っていた現実と目にしている現実の乖離だった。ちゃんと本を読んでいて、それっぽいことを言っていても、実現される行動は全く違う種類のものかもしれない。それこそ、人間臭いところかもしれないが。でも、私は今まで学問している人は、その学びが自分の思考や行動、勇気につながると信じて、期待していた。学問している人は、いい大人だと思い込んでいたのだろう。現実はそうではないことに気がついて、実に辛かった。自分が信じていた世界が崩れた瞬間を目撃して、私も結局そうなってしまうのではないかと、その口ばかり、言葉ばかりの人間になってしまうかと、挫折していた。

 

先生のことを先生として尊敬していたからこそ、その無力感は非常に大きかった。何も知らないときは、すべての教えを鵜呑みにすることに忙しかった。価値判断をする暇もなかった。だって何も知らなかったから。しかし、ある程度知識が増え、本の世界に触れ、友達に出会い、先生の教えは必ず真なるものではないことに気がついた。先生の教えは、先生がこの世界をどう見ているか、つまり真理そのものではなく、ただその個人の意見にすぎなかった。先生の言っていることがすべて妥当ではないことに気がついた。もちろん、相変わらず尊敬する部分はある。私には儒業の文化が深く根付いているからだ。しかし、もうこれ以上は消化不良になってしまうと思った。

 

確かに色んなことが学べた。これは否めないだろう。しかし、成長と上達を混同してはいけない。私は「そうできるようにはなった」のである。上達しただけであり、成長したわけではない。私の成長は、みんなとつながることで得られたものである。教えからきたものではない。その関係から得られたものである。

 

次に、負の連鎖を途絶えることの難しさである。連鎖は繰り返される。無意識の中に自分の体にそれが染み込んでくる。まるでパラサイトのように。気づいたら、もう自分の体はすでに空っぽである。そこに抗うのはすごくの体力が求められる。どうしてもどうしても入ってくる。それを浄化させるのに力を入れていたため、疲れたこともある。

 

ここで反省しておきたい点がある。私の行動である。私は義理としてそうふるまったわけだが、現実ではそう簡単にはいかないことがわかった。私の義理は、他の側面から見ると、じゅうぶん誤解される余地がある。意図がそうでないとしても、他者にそう感じ取られるとしたら、やめるべきである。知らなかったため、今まではずっとこうふるまったかもしれないが、これからは断固にやめておく必要がある。振り回されるのはごく大変なものである。

 

私は社会に調和されたいわけではない。自分の人生を送りたい。型を作ってもらってそこに自分を当てはめるのではなく、ただ自分の気に入る型を自分で用意して、その形のまま、社会の中で生きていきたい。

 

私は、自分の言葉を失いたくない。自分の言葉で、自分の世界を開拓して、その個として存在していきたい。そのためには、お金も、知識も、知性も、権力ももちろん必要である。それに目を背けたくはない。事実なのだ。私のやり方は、その認めたくないところをちゃんと見て、自分のあるべき姿と避けるべき在り方を考えて、自分の納得のいく居場所を作るのである。そのためには、学問する力が必要である。

 

学問は、まず本や人を通して、すでにある知識を柔軟に獲得する必要がある。その語彙力は私が世界を眺めるときの最もいい羅針盤になるだろう。しかし、見えている世界がすべてではないことも熟知しなければならない。そして、言葉が自分の視野を裁断することも忘れてはいけない。私の持っている言葉は、だいたい他人の言葉だ。私は、世界を経験するとともに、他人の言葉を自分の言葉として置き換える必要がある。どういう文脈でこの言葉が使われているか、この記号によって見えていなかった世界はどのようなものがあるか、こまめに分析しなければならない。そして、自分の言葉で自分という個性の塊を構築する。コミュニケーションはそのためにあるものだと思う。自分というある意味歪な存在が、他者と調和するにはどう調整すればいいかを絶えず調整していくために。

 

そして今回の事例を通して、時間の経過はいかに恐ろしいことがわかった。時間はある意味賢さを侵食されるのかもしれない。きっともっと前はいい人だったと思う。しかし、時間は経ち、時代は変わった。そして捉え方も感じ方も変わってしまった。そうだけである。ここで是非を見極めるのはそれ以上でもそれ以下でも意味のないものである。

 

精神の限界を直面していると同時に、自分の精神力が思った以上に丈夫だったことに気が付いた。一息ができるようになった今、最後までちゃんと結んで、新たなところへ旅立ちたい。