新学期

研究会を変えたせいか、恋愛のせいか、せいにしていいのかよくわからないけれど、毎日ジャーナルをつけないようになった。研究会でのジャーナルは監視の機能が確かにあったから毎日のように更新できたかもしれない。しかし、あまりにも明らかなせいでそれが評価されなかった時の挫折感もすごかったけれど。卒業というのは、監視の機能から少し離れて、自分に望ましい生活を保つことかもしれない。見られなくても書き続けていることがもはや素晴らしいことかも。確かに毎日ジャーナルをつけていると、何かを書くときに自信のようなものがつくし、すらすら書くことに抵抗もそこまでない。その感覚が恋しくなった。

 

3年から4年。多くのものが変わった。関係性も、場所も。寂しくも運命としても感じているが、なんだか悪くない。新学期特有の居心地悪さはあるが、落ち着いてくることを知っているから不安だけど、そこまで気にならない。進級してから変わったことは、口数が減ったことだ。

 

 

『知の技法』

p.3

知の制度の変革も、こうした世界史的な規模での変化の流れの一環であるーーーというより、実は、高度にテクノロジー化された知の在り方そのものが、こうした大きな変動の最大の要因かもしれないのですが、その意味で、大学という場の原理について考えることは、とりもなおさず、人間の文化の過去・現在・未来について考えることにもつながってくるのです。

 

p.6

文化系の学問の多くは、かならずしも数式のような普遍的な言語による記述になじまない。(省略)しかし文化系学問の関心の中心は、対象の数量的な扱いにあるよりは、むしろ本質的に数量的な扱いに抵抗するようなものの記述にあると言っていいでしょう。すなわち、「もの」ではなくて、「ひと」です。人間の文化現象、社会現象です。まっさきに、量よりは質や意味が問題となり、数量という一元的な操作には還元できない多面的な、あるいは大義的な空間が浮かび上がってくるような対象です。歴史という意味の堆積の層を通してでなければ接近することができないような複雑な対象です。あるいは、反復操作による実験という自然科学の手法が不可能な対象、その意味で本質的に歴史的な対象です。

副産業物

好きだから語りたい。語りたいから好き?←人間がよく繰り返す認知エラーの一つ。今井さん曰く、対称性バイアス。

 

手書き文字とこのフォント文字の一番の違いは、全くテイストが異なることだ。パソコンで何か文章を書こうとしても、考えていることとは全く違う内容をよく書いてしまう。悪いことではないだろうが、書き手のこちらとしては寂しいのだ。私はこのパソコンを開けるまで、雑誌の好きなところについて書こうとしていた。しかし、いざ打ってみると、今のように想像もしていなかったことについてつい書いてしまう。手書き文字は使いたいスペースや文字の形などを自由に操作できる。考え通り再現できないかもしれないが、自分の考えに似た形で写すことができる。しかし、パソコン文字は正比例でとても安定している。だからすらすら書けるが、今自分が何を書いているかあまり意識できない。漢字を間違えても、文章のテンポが悪くても、消して書き直せば良いのだ。考えがまとまらない時は、この書き方の方が確かに落ち着く。何かを書いている感覚に頼れるからだ。しかし、自分の話はどうしても手書きで書きたくなる。手で書いた文字や文章が気に入れば気にいるほど、自分に対する愛着も湧いてくる。生きている証とも言える。

 

さて、雑誌について書こう。

私はなんで雑誌が好きなんだろう。そこまで読んでもいないのに不思議なことだ。まず、憧れる理由として雑誌ならではのレイアウトが好きなことがある。ごちゃごちゃしていて、妙に整っている感じが好きだ。私の脳内とも似ている。色んなものがごちゃごちゃ混ざっているが、私からするとちゃんと整理されているのだ。私の脳内の場合は、見栄えは確かに悪いだろうけれど、雑誌はそれを乗り越える。乗り越えて、その自身ならではの個性としてやりこなす。私はそれに惹かれていたのだろうか。

次に、本よりは読みやすくて映画やビデオといった動的なメディアよりは重いからだ。本も憧れの存在である。しかし、なかなか手が届かない。読み始めると楽しいが、その「読み始める」までの時間がどうしても長くなる。YouTubeや映画などももちろん優れた読み物の一つだが、疲れることが多い。見過ぎるとなんだか飽きてしまうのだ。この本と映画の真ん中の役割をしているものが、記事やコラムだろう。しかし、記事は暗い内容に晒される恐れがあって嫌だし、コラムは確かに専門家の文章に触れることはできるが、本並みの壁がある。雑誌は、本と動画の間、記事とコラムよりも軽い読み物としてその役割を果たしてくれる。何かを読んでいることからくる満足感、それっぽい教養たっぷりの情報に接する高揚感、写真を通して行うウィンドウショッピング。教養知識よりは軽い。しかし、その軽さがくれる重みは案外おいしいのだ。

箇条書きになっているから嫌だが、最後に、私が簡単にアクセスできない世界のことを色々教えてくれるところが好き。私は、忙しい。雑誌が紹介する場所へ、趣味へ、お店へそんなに頻繁に時間を割愛していけない。つまり、私の手にできる知識や情報には限りがあり、なお私よりの偏向的さも含んでいる。しかし、雑誌は教養ぶりから出る第三者の視点があり、私のよくいけないことやものについて行って、それを伝えてくれる。だから、好きだ。

 

卒プロの制作物として、漠然と雑誌が作りたかった。これで作れたら、雑誌作りを続けて良いと思う。しかし、作れなかった場合、雑誌作りはもうやめて、また消費する側に回らないといけない。私の仕事ではないからだ。私はこの発想からいかなるものを作り出すのだろか。これからが楽しみだ。

あ〜〜〜まじかよ

やべぇやべぇ

 

恋愛だの春休みだの、ブログを書かなくても良い言い訳が自分の中でいっぱい溢れてきて、しばらく全くこの空間を放置していた。笑顔の仮面を被った罪悪感に押しつぶされそうにもなったが(たぶん)、よく逃げていたと思う。逃げてよかった。逃げるしかなかった。とにかく、自分の中での逃げ恥を十分に味わってきた今、目前にあるのは「残り学生生活あと1年」という事実だけだ。そういえば研究会を変えた。すぐ割り切れると思っていたが、そんな簡単に割り切ることはできなかった。まず、研究会の行事があったのと、1年半という記憶があったからだ。でもやはり変えるしかなかったと思う。私ができる、そして進みたい方向性と違ったからだ。無事に今までの生活を結ぶことができて、心から嬉しく思う。不器用かもしれないが、それが私の最善である。新しい環境の中で、また切り開いていくしかないだろう。初対面は、なぜか私の得意分野だ。恐れることはもうないわ。(ルセラ)

 

さて、ブログをまた更新しようと決意したきっかけは、単純に卒プロがあるからだ。卒プロとは何かといえば、卒業するためには書かないといけない製作物のことを指す。私が新しく入った木原研は卒業論文をその条件として掲げている。この論文を書くために、地道に日頃の研究や考察を重ねなければならない。卒業のための論文を書くことも一つの手だが、私は、私の満足できる論文らしき論文を書きたい。研究らしき研究もまたしたい。その一方として、このブログがある。卒プロについて、卒プロについてではなくとも、日頃の自分を明確にしておくことは非常に大事だと思う。私が目的としている文系の論文は、このような言葉を証として分析や考察を重ねるからである。毎日30分でもいいと先生が示してくれた。お家で毎日30分、私にできることは記録と読書くらいしかないだろう。考察や分析は学校で行うだろう。

 

今日はとにかくここまでにして、日々地道に更新していきたいと思う。よろぴこ。

 

 

むらかみ

 生きていると、どうしても眠れない日が訪れる。今日がその日だ。多分原因としては、20時頃に飲んだ抹茶のせいだろうけれど…。ヨーロッパではいくらコーヒーを飲んでも眠れないことはなかったから、やっとカフェインが飲めるようになったかと油断した。全然ダメでしたって話。

 

 村上春樹、さんは小説家としてよく知られている方だ。私も彼を小説を通じて初めて知った。私は、村上春樹、とした名前をしている彼が好きだ。恋愛的な感情ではなく、その言葉の語感がいいから、なんだか形容できない好意をもってしまう方の感情に近い。彼の名前がついた作品はつい読んでみたいという欲を呼び起こす。『ノルウェイの森』のように、彼の作品は傑作に違いないだろう。ここで面白いことが、私は村上さんの作品を読んだことがないことだ。読んだことはあるかもしれない。しかし、覚えていないのが現状である。私はその、村上春樹、という語感に惹かれて今まで漠然とした好意を寄せているのだ。そう思うと、世の中って理不尽だな。名前だけで、あまりにも語感が良い名前だけで、こんなにも簡単に親近感を覚えられるとは。と、つい思ってしまうのだ。

 

 確かに私は村上さんの小説は読んだことがない、あるいは覚えていない。でも彼のエッセイはとても好きで、本屋で見つけるたびに購入している。率直だけどなんだか距離感のある彼の淡々としてる文章が好きだ。語感による親密感もあるかもしれないが、エッセイに対する感情は偽りがないと断言できる。

 

 好きなことについて語ること、言葉を紡ぐことで食っていくこと。それは、あるテーマについて淡々と文章を作ることを表すのではないか。実際に彼は静かな性格かもしれないが、彼の文章は人の顔なんて伺わない、とても唐突な文章だ。媚びることなく、正解らしきものを書くのでもなく、彼自身が思ったことを鋭く、時にはだるそうな感じで描き出す。私はそれにハマったかもしれない。

 

村上さんという人は好きじゃないけれど、村上さんの作る村上さんは好きだし、その筆名も、文章も好きだ。

 

つらつら文章を書いていると、私には辛い記憶に襲われることがある。辛かったけれど、辛かったとは言えない記憶ってみんなもっているんじゃないかな。私はもっている。多分周りのことを気にしているからだろう。わかっているけど、中々治せない癖である。私はなぜ辛かったんだろう。そしてまだその感覚を引きずっているのだろう。若さゆえには、どうにもできない記憶だ。

 

文章を書くより、文章を作るという表現の方がよりしっくりくる。私は作っているのだ。文章を、この私の考えを叫び出すために。叫びたくても叫びない、この届くところのないことを発散するために言葉を紡いでいる。この糸がいつかは自分を救ってくれるのでないかと期待してしまう。

 

好きとか、好きじゃないとか。そんなの、私には難しいよ。ずっと受け止めて欲しいと願ってしまうのです。

 

30万ほど買い物をして感じたことは、資本による物理的な快楽は私の中にある穴を完全には埋められないこと。ないよりかはあった方がいいけれど。

好きなことについて語ること

しばらくブログをつけなかった。時間がなくて書かなかったこともあるけれど、「書かなきゃダメ」の強迫観念から離れたかったから書いていなかったのもある。学期が終わってからはヨーロッパに行くことになって、最小限の荷物で行ったわけだから当然パソコンは持っていかなかった。手書きでちょこっと日記らしきものは書いたが、手書きの文章はすぐ自分の手元から消えてしまう。何かを書いたという感覚より、ペンを握っていた感触に近い。誰かに見せるための文章じゃなかったからかな。

 

このブログに、キーボードの打つ音を友として綴った方がなんだか「何かを書いた」というやりがいを覚えやすい。物質的に認識可能な単位で、このネット世界に残ってくれるからかな。

 

最近の出来事をまとめると、

①メガネを忘れました(バカ)

②秋学期を終えました

③ヨーロッパに行ってきました

この三つである。

付随してどうでもいい情報も流してみると、彼氏のことをよく考えてしまいます、ということもあります。

 

久しぶりの書き言葉への復帰なのもあって、カッコ付けずにありのまま書いた方がいいかと思われます。あーあ。

 

まず書いておきたいことは、

秋学期の振り返り

ヨーロッパ旅行の振り返り

彼氏との関係かな

書いておくことで自分の気持ちが落ち着く気がして。今日書けなかったら後ほど書いておくか、胸のどこかに収めておきます。

 

【秋学期の振り返り】

クソ大変だった☆、この一言に尽きる。でもその分切実に

 

猫ちゃんが来て最後まで書けなかった。

 

0と1で書かれて感想

 ずっと後回しにしてきた切れた電球を交換した。思ってたのとは違うちっこい電球が届いてしまったが、返品もめんどくさいし電球なき生活よりは100倍良かったので、そのまま使うことにした。

 

 最近はよく言葉について考えている。言語、言葉どちらも。言語に重きを置いて考えるときはナショナリズムを意識して考察する傾向がある。そして言葉について考えるときは感情について思うことが多い。今まで歳を重ねて気づいたことだが、やはりどちらかに属さず生きていくことには無理があると思う。属さないにも「属さない」という項目に属さなければならない。属さずには生きていけないことがわかった今、私はどのように生きていけばいいんだろう。属することの倫理を考えながら、生活に対する考えの重さを調整している。自由は何もない状態ではなく、キリがなく複雑な条件の中でどれを自分のものとするか束ねる力、そしてその状況の中で成り立つものだと考えられる。

 

 物理学においても、美学においても「時間」という概念はとても興味深くて、移動中や帰り道でついつい考えている。この前読んだカルロ・ロヴェッリの『時間は存在しない(おすすめ)がとてもおもしろくて、それに基づいて今までの捉え方を捉え直している。〈今〉を実感せずには不安で生きられない人間という動物。その足掻きの中で芸術は生まれ、学問も編まれただろう。私は、映画という表現方法を「時間の美学」と定義している。そのため、どれだけ苦しくても倍速にしたり、シーンを飛ばしたりしない。監督が設けた世界の中に浸ること。それが私にとって「映画を観る」ことである。

 映画をつくることは、〈時間〉を編み出すことである。数多くの粒子の中で、過去と今、そして未来をつなげる素材を丁寧に選び出して、カメラのレンズに写す。この過程で粒子は存在することになり、海馬を通して記憶として脳内に刻まれる。映画の魅力の一つは、時系列に並べなくても良いことだ。そしてもう一つは、視座や視野の調整しやすさである。このテクニックは、現実では簡単に味わえない快楽を与えてくれる。要するに、秩序が可視化あるいは感知できるようになるのだ。妥当であるか、妥当ではないか、自分の基準で判断できる。監督がつくった世界の時間と観客の時間の軸は、ある一定の場で交差し、その個々人の世界を理解する手がかりに生まれ変わったりする。

 自分の時間を構成していくことがつらいとき、私は映画の世界に逃げる。時間の構造を学び、自分の世界で真似し、自分の時間を再構築していく。この文脈で映画は私にとって魚のエラみたいなものだ。

 

 生きづらさを武器としない生き方がいい。でもどう回避しようとも、結局誰かを刺してしまうだろう。そのときは素直に自分も傷つくべきだ。というか、傷つきましょう。