小熊英二『基礎からわかる論文の書き方』

第1章 論文とは何か

論文は「人を説得する技法」。論文とは、読者に自分の主張を述べ、それを論証し、説得する形式です。

 

アメリカの「ハンバーガー・エッセイ」:①自分の主張を述べ、②論拠を示して論証し、③自分の主張の妥当性を確認する、ということを行う形式。一定の形式に沿って

書いているか否かが、客観的な評価基準になっている。一つの特徴として、アメリカ式の論文の形式は説得の技法に基づいたものなので、主張が真実かどうかとは別である。いわば善用も悪用もできる技法である。しかし、この技法が多くの国や分野で主流になっている。だいたいどこでも使える。(論文の形式は一つだけではない)

①序論(introduction=introductory paragraph):まず主張を書く。

・最も重要なのは、全体の主題を述べる「主題分(thesis statement)」。つまり、全体の主題をはっきり差sるのが「序論パラグラフ」の役割。

②本論(body):主張の論拠をいくつかのパートに分けて書く。≒積み木

・「パラグラフ」の役割:段落というよりも、一つの内容のまとまり。

・ 説得的な論証のために、比較(comparison)、対比(contrast)、問題を定義(definition)、過程(process)や状況を記述(description)、原因(cause)や影響(effect)を述べることをする。

・事実関係をうまくまとめた物語(narrative)にすることも、パラグラフの重要な役割の一つとされる。つまり、全体が「主張を論証する」という目的のために組織化されている。その目的のために、一つ一つのパラグラフが役割を分担している。

③結論(conclusion):主張を再認識する。

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①最初のパラグラフは象徴的な物語(narrative)から始まり読者の関心を引く。そして「これは格差の問題だ」と主題を設定する。→「物語パラグラフ narrative paragraph」・「主題提起パラグラフ introductory paragraph」

②本論第一のパラグラフで、データで現状を記述(description)する。本論第二パラグラフで、他国と比較(comparison)する。本論第三パラグラフで、原因(cause)や影響(effect)を分析する。→「記述パラグラフ description paragraph」・「比較パラグラフ(comparison paragraph)」・「因果パラグラフ cause/effect paragraph」

④最後に、「やはり格差の問題だ」「こういう対策をとるべきではないか」と結論する。→「主題再確認パラグラフ conclusion paragraph」

→こうエッセイを組み立てる。

 

「レポート」とは何か

・レポートとは、問題を提起し、その問題に対して自分の考えを客観的かつ論理的に説明した学術的な文章です。構成は①問題提起をする「序論」②論証する「本論」③論証の結果を書く「結論」。学術的な文章とは何か。「私はこう思う」はダメで、論証に使う根拠は、文献や調査や実験で調べたものでなくてはいけない。出典表記が非常に重要である。

・「どれだけたくさん調べたか」ではなく、「主題を論証する根拠として調べた事実をどれだけうまく使えるか」が重要。レポートの評価基準は、①主題が明確に提起されており、②主題を論証するために必要な根拠が明確に調べており、③調べた根拠を論理的に使って論証が行われており、④主題が論証されたことが説得的に示されているか、ということだ。

 

卒業論文とは

学士号を得るための論文は、まだ誰もやったことのない研究をもとにした、学術論文であることが必要だ。つまり、一つの研究を実行する能力があることが認められて、学士号が出されるわけだ。「世界の大発見」とか「学会に一石を投じる研究」とかである必要はない。どんなに小さな研究でもいい。しかし、一つのプロジェクトを企画し、実行し、完成させる能力があるかどうか。それが基準になるわけだ。

・評価基準は、自分で主題を提起して、それが新しい研究であることを示し、独自の調査や実験を行って、その結果の分析をもとに主張の論証ができているかどうかである。そして、そのような形式の「論文」を書くことができるかどうかである。これが客観的な審査基準の一つになるわけだ。

 

学術論文の形式

・論文の基本構成の一例

①序論:問いを立てる

⑴ 主題(リサーチ・クエスチョン):この論文の問いは何か。研究目的とも言う。

主題設定の手前に、自分があつかう主題がなぜ重要なのかを、最近の社会的背景などから説明することがあります。hookみたいな機能をする「つかみ」と言えよう。「研究背景」といった名称で書かれるが、必要がないなら省いてもいい。

⑵ 先行研究の検討:この論文は過去の研究とどういう関係にあるのか。

自分の研究が、過去の研究とどういう関係にあるのかを述べること。自分の研究は、どこが新しいのか。これまでの研究では、その主題が、どういうふうに扱われてきたのか。そうしたことを書く。

⑶ 対象:どういう対象を調査することで、①で設定した主題を扱うのか。

自分の立てた問いを、どういう対象を調査することで明らかにするのかを書くことだ。

⑷ 方法論、方法:どういう方法の組み合わせで、③で設定した対象を調査するのか。

その対象を、どのように調査するのかを書く。「リサーチ・デザイン」という名称で書かれることもある。

→ポイント

❶「自分の研究はどこが新しいのか」を明らかにすること。

❷「これからこういうやり方で研究をする」・「自分はどのように調査するのか」を明らかにすることが重要。この二つが「レポートとの違い」である。

 

②本論:問いを検証する

本論 第一章

本論 第二章

本論 第三章

具体的な調査内容を書き、それを論理的に組み立てて、主題に対すること絵を論証する段階。

 

③結論:問いに対する答えを述べる

調査結果の分析と考察

この研究の貢献と限界

レファレンス(参考文献一覧)

本論で調査した結果を再確認し、分析して、主題に対する答えを述べる。そして、それによって何が新たに明らかになったのか(この研究の貢献)、何が明らかになっていないのか(この研究の限界)を書く。そして最後に「レファレンス」として、自分が依拠したり、引用したり、批判したりした過去の研究、引用した文献などを一覧にする。これは、調査結果のねつ造や、アイデア剽窃(盗用)をしたわけではない、ということを示すためにも重要。

 

論文を公表するときは、相手を説得することを想定して書くわけである。それを読んだ人が、意見が違うと思ったら、根拠を示しながら反論する。そうやって議論をしながら、科学は発展してきたと考えられている。

 

プラス

最初に要約(adstract)をつける場合もある。読者がまず要約だけを読み、関心があると思ったら論文の全体を読む、ということをできるようにしておくため。

自分の論文を印象した先行研究の論文は引用文献(references)、引用はしなかったが参考にした論文は「参考文献 bibliography」として、区別して論文の末尾にリストをつけるのが一般的である。

 

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新種のナマケモノ

 誰のためでもない文章を書くことの素晴らしさについて話してみよう。きっとそれは、自分の書きたい話で文章の幕を開くことができるのだ。目の前にはキーボードがある。しかし、まるでジャズを詠んでいるような気分に浸る。常に自分の望むメロディが続いていくわけではない。たまにはあるいはほとんどが、そうでないメロディであろう。しかし、そのような今とああかもしれない未来を、大らかにまたは丁寧に紡いでいくことで「生きている」ことを実感する。いい文章を書くから楽しいわけではない。生きていることが感じ取れるから楽しいのだ。

 

 今日が暮れてゆくうちに「今日の愛おしかった瞬間」に話してみよう。最近ハマっているアニメがあって(Steven Universe←n度見)、読書や勉強は未来の自分に任せて好きなアニメや映画ばかり観ている放課後を送っている。「あーそろそろ読まないとー」と内心焦ったが、体が言うことを全く聞いてくれなかった。いや、聞こうともしなかっただろう。とにかく、そのような日々を続けて当然ながら自分の研究アカウント(趣味垢)のフォロー数も増えたわけだが、ふとBRUTUSの映画記事のスートリーを投稿するとき、「私ってこんなに好きなものが多かったんだ」と気づいた。え、こんなに多いんだ、と!「趣味はなんですか?」と聞かれるたびに困難さを隠せなかった自分だが、いつの間にかこんなに好きなものが増えていたなんて。すごく嬉しかった。

 

 次の愛おしかった瞬間は、最近の生活について。先月から2ヶ月程度のダイエットをすることにした。「ダイエット」と言うと、痩せるために絶食するとか限界まで食欲を否定する試みとすぐ誤解されやすいが、私の場合は「ちゃんとした食事を決めた時間に摂る」ことを意味する。体重減少は体の栄養バランスを整えると、自然についてくるものでしょう。ということで、朝ごはん・昼ごはん・夜ごはんを決めた時間内に規則正しく食べている。献立にもある程度の縛りはある。たとえば、揚げ物はできる限り避けること、ファストフードより手作りの料理を食べるよう頑張ること…。お昼ごはんをいっぱい食べて、間食や夜食は控えること。今までの食生活が荒かったので、大変な時も当然ながらやってくる。お菓子が食べたいとか刺激的なものが食べたいとか。しかし、一生食べないわけでもないので、この期間内だけ控えておけばいいと、落ち着いた心構えで日々の衝動に向き合っている。

 

 何より素敵なところは、料理する時間が増えたのだ。その日の気分で自分の好きな食材を組み合わせて、オリジナルレシピで食べたいものを作る。それをお腹がいっぱいになるまで食べる。これがとても幸せなのだ。もちろん大変な瞬間も何度もそして頻繁に訪れる。しかし、不器用ながらも卵焼きを作る楽しさ、好きな食材で飾った食卓をも忘れたくない。刺激的な食べ物は確かに美味しくて魅力的だ。しかし、この2ヶ月は素朴にそして充実に過ごしていきたい。何より不眠が解決できたし。寝つけが悪くて心配だったが、最近はそれもなくなった。ぐっすり眠れていい。

 

 書いてみてわかったのだが、「愛おしい」には至って多様な感情が含まれている。単に楽しい・幸せ・嬉しいから、「愛おしい」のではない。ときには我慢・わからなさ・不安も紛れもなく存在する。良し悪しがあってからこそ、不可抗力的に愛おしく思うのかもしれない。この複雑さに思い切り身を委ねることも悪くない選択肢だ。

 

 気の向くまま生きる大胆さ、理解できないことへの優しさ、社会のリズムに耳を傾ける寛容さ…大切で愛おしい生活を守るために全て不可欠なものだ。

 

 

シトシトした秋の香り

何が楽しかったか、何が嬉しかったかわからないけれど、漠然と悦びに満ちた日ってあるよね。今日がそのような日だった。

 

秋の訪れを教えてくれる雨の日。穏やかに降ってくる雨を眺め、もう秋がここに渡来してくるんだーと実感した。今日を境目に気温もグッと下がるらしいし。基本的に晴れの日が好きな人だが、久しぶりの雨がそこまで憎らしくはなかった。そうか。雨はこの星のお便りを伝えてくれる鈴みたいなものだったね。猫のいっぱいある傘をもって家を出た。

 

余談だが、今はあるまちにあるスタバで日記をつけている。ホットティーカモミールを頼んだわけだが、あまりにも温かく一口ももらってない。猫舌すぎる。

 

金曜はその週の疲れが波のように押し寄せてくる日である。今日だけなんとか過ごせば!と思いつつも、溜まってきた疲れがそれを許してくれない時もある。したいことはたくさんあった。そして、やらねばならないこともたくさんあった。しかし、幸いなことに私にはそれが調整できる口がある。

 

自分の時間軸に耳を澄ませて、仕事よりはふとやりたくなったことを衝動的に試みる。最初は怖さの方が勝る。行ったことのないところより、行ったことのある場所に行きたくなる。

 

研究会の真っ最中、どうしても映画が観たくなった。友達とある日レイトショーで観た映画がとてもよかったのがきっかけだろうか。映画じたいも素晴らしかったが、ただ友達とレイトショー映画を観たということがとても楽しかった。高校時代を思い出す。学校で遅い時間まで勉強しないといけなかったので、友達と遊ぶ機会が学校内でしかなかった。溜まったストレスを発散するために、たまに友達と近所の映画館でレイトショー映画を観た。その日観た映画は、『ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち』。タイトル通り本当に奇妙な映画だった。観た後の外は真っ暗。人も少なくまちがとても鎮んでいた。まるでまちの主人となったよう、その夜道を友達と歩き回った。

 

大人のためのカラオケ、売春、お酒、酔っ払い、ホームレス、バイト帰りの若者、終電を狙っている会社員、暗くなった百貨店、不良たちがよく力比べをするゲームセンター、それに媚びる女たち…。その中にいる制服を着た女。ノスタルジアと名づけるには汚く、一方では人間らしい思い出だ。

 

シトシトした雨の持ってきた香りには、どのような物語があるだろうか。すべてを抱え込むことはできないかもしれないけど、せめてそれと向き合える人になったら嬉しいかも。

ストイックと言われてるけど、そうじゃないと嫌なんだよ。これは自分の生き方である。

しばらく忙しくて日記を書いてなかった。課題、卒プロの設計、遊び…。ある意味充実しようと頑張った気がする。(「充実」ってなんだ?)怒涛の日々だったが、ある意味では自分についてよく知れた気がして、どこかホッとするものがある。

 

できはや(ASAP)でやりたいこと

・卒プロの設計と先行研究の把握

研究楽しすぎる点。もちろん苦しいこともたくさんある。例えば読まねばならない資料の量が半端ないこと。そして、課題が重くてうまくバランスが取れないこと。思ったよりそんなないわ。とにかく、自分の研究テーマについて考えることが楽しくて仕方がない。よりいいものに仕上げたいし、心的に体的に疲れても一晩ぐっすり寝るとすぐ新しいモチベが湧いてくる。卒業まで1年半。最後まで自分の気の向くまま進むど。

・バイトやめる

研究に専念したいことと最近疲れたことがあって。バイト先は何も悪くないけど、もう疲れちゃったよ。社会の枠に自分の期待に自分を収めるの。残りの期間は本当に自分のやりたいことをしながら、好きな姿で好きな生き方で、人生において楽しい生き方が十分あり得るのを自分に知らせたい。

ウクレレ

楽器に才能も熱情もなかったが、最近は性質の少し異なる表現手段を身につけたくて。ピアノとかヴァイオリンとかはなんだか自分に相応しくない気がするが、ウクレレは何だか自分に和むところがあると思って。練習環境も備えてあるし。研究や生活に疲れた時はウクレレでそれを労わっていきたい。

・髪染めやネイル

・アカデミック英語

喋りたくて仕方がない自分。英語も早く極めてより他の思考で自分の考えや他者と関わっていきたい。生き方に自由を与えてくれー。

 

とにかく総括してみると、いわゆるギャルになることを目指している。見た目でもいいか、よりギャル精神を身につけていきたい。たまにこれを口にすると、「ギャルは目指すのではなく、なるもの」と言われることがしばしばある。言いたいことがわかるが、ギャルマインドではない人がギャルになるためには、ギャルを目指すしかないと思う。わざとらし表現かもしれないが、言葉を自分に何度も言い聞かせることは非常に大事だ。「なる」前には「なりたい」があるのだ。

 

まだギャルというのがピンとこないが、自分のテンポでそのリズムに自分を合わせて生き続けたいと思う。取捨選択は欠かせないだろう。そして、「見た目ギャル」と「ギャル」には大きな差異があることも熟知せねばならない。

 

小さなカケラを集めて溶けた後には、透き通った空があったと。

↑ いきなり頭をよぎった文章

 

 

 

どろん

顔パックなう。顎のところに触ると痛いでっかいニキビができた。困る困る。早く治ってくれ。

 

最近はダイエットをしていることもあって、刺激的な食べ物を遠慮している。そのため、モッパンを最近見ているわけだが、うーん、食べるのをひたすら見るのって大変だな〜。どれだけ美人な人でも、なんだか無理!ってなる。でも幸いそんなことを気にせず見れるYouTuberがお一人いて、最近はその方のモッパンを見ながら、夜食を食べたい気持ちを抑えている。

 

そういえば、価値って比較対象がないと気づきにくい概念かもしれない。その対象単体だけではどれほど美しくて価値のあるか中々気づき難い。比較となるものがあってからこそ、その対象の価値に気づくのだ。

 

恋愛って本当に難しいなーと思うこの頃。マジで!異性の見分ける目がないかもしれない。いや本当にそうかも。ショックとかはないけれど、心のどこかを占めていた何かを失ってしまった分、確かに物足りなさ?さみしさ?はある。悲しいわけではないけどね。喪失感って名づけばいいのかな。ただ無くなってしまったことに対して、悲しくも腹立たしさもない、そうなんだと言える淡白さが自分のそばにいる。淡々としていることに戸惑いを感じているだけかもしれない。今まではチャラい→チャラい、真面目→真面目という図式だけを持っていたが、今回の経験から、チャラい→チャラい、真面目→チャラいという図式も新しく増えた。というか、本当に人に期待しない方がいいかも。いつも自分は人に期待してしまうんだ。

 

期待することは、他人のある一面だけを見てそこからブレずに私の実現したいことを実現してよーと願う心なのかもしれない。なぜなら、その一面は十分私の叶えたいことを叶えてくれそうに見えたから。でもやはり人って複雑だし、日々変わる存在だから、そんなことできないに決まっているかもしれない。夢を見ていましたね。自分の身体が着陸していることが感じられる。地面はずっとこれだったのに、空中浮揚してそれらにずっと気づいてなかった。授業だけが学びではない。より多様な人間関係を持つべきだったな。

 

でも徐々に自分の口で話をして、自分の目で世界を眺めて、地に足をつけ始めている気がする。情けなくて下手でも、やはりこちらの方が好きだ。確かに私はおしゃべりだが、このように文面で自分の考えを書きつけるのも好きだ。むしろ言葉としては後者の方が好きかもしれない。発表とか苦手だし。

 

ダイエットが終わったら、まずは辛いもの食べに行こう。

ネコの手を借りるより、ネコの手にフミフミされたい

好きだから、自分のできる全力を尽くして努力した。楽しいから、過程がどんなに辛くても一つの歓喜として意味づけして自分をフォローした。しかし、目前の結果から、それは自分では到底できなかったことだったことに気づく。手をつけただけで、何もできてないことに脱力感を感じている。これが自分の限界だろうか?

 

あまりにも忙しなくて、それをちゃんとやりこなしていない自分に眩暈がする。鬱なわけではない、楽しくないわけでもない。むしろ、楽しいし幸せである。ただ、自分の期待に自分の手のつけたことが応じてくれず、私はただの欲張り者だったことに気づく。

 

頑張れば報われなくても、自分なりに納得のいく終結に至ることができる、と信じてきた。いや、自分の働きかけに世界は何らかの形で応じてくれるもの、と信じていた。しかし、実際はそれとは異なった。世界は必ずしも私の足掻きに反応してくれない。世界はあまりにも広闊で、私はあまりにも小さくて刹那だ。世界にとって私は瞬く間に消えていく存在であろう。人間的時間というまなざしで、世界を眺めてしまう。そこからどうしても逃れられない。

 

自分がつくったものに、自分が見事に食い込まれていく。なんてバカバカしいことだろう。ここから離れたい、自由になりたいと思っても、自分の属した社会の見えない引力でまた戻ってきてしまうし、そこでしか自由が得られないと思い込んでいる。ここでしか味わえない匿名性、そして何かを成り遂げたという達成感。私は今それらの奴隷になっているのかもしれない。

 

ヘーゲル弁証法が思い浮かぶ。ヘーゲルは人間の歴史を、主人と奴隷の弁証法と定義した。私の生もその弁証法の中でしか続かないものだろうか?応じてもらうことは、期待してはいけないものだろうか?

 

自分の限界を目の前にして、その越え難さをしみじみ実感している。今までは愛するものを第一に優先したが、もう力尽きたかもしれない。何かを愛しているかより、何かを諦めるべきか悩む自分となった。