野家啓一『物語の哲学』

野家啓一『物語の哲学』、岩波書店、1996

・序

歴史は物語られねばならない

p.8

コジェーヴが付けた注

「まず実存する歴史が仕上げられなければならず、次いでこの歴史が人間に物語られ(reconter)ねばならない。」

「加えて、歴史的想起なしには、すなわち語られ(oral)」たり書かれ(ecrit)たりした記録なしでは実在的歴史はない。」

 

コジェーヴは前半の本文において、まず実際の歴史的出来事が生起し、さらには完結し、しかる後にその出来事が人間に対して物語られるべきことを説いている。彼によれば、ヘーゲルの『精神現象学』は、実在する歴史的発展が終わった後に、それをアプリオリな形で再構成した一つの物語なのである。しかし、後半の注においては、その時間的順序を逆転させ、「語る」あるいは「書く」という人間的行為によってはじめて実在的歴史が成立することを述べている。

 

p.9

その語るという行為を「物語行為(narrative act)」と呼べば、実際に生起した出来事は物語行為を通じて人間的時間の中に組み込まれることによって、歴史的出来事としての意味をもちうるのである。

 

p.10

歴史は「物語分」を語るという言語行為を離れては独立しえないと言わねばならない。→一つの出来事は、単なる自然現象。しかし、複数の出来事を関連づけるという「物語る」ことによって歴史的出来事になるのだ。

 

・第1章:「物語る」ということ

⑴物語の衰退

p.17

人間は「物語る動物」である。あるいは、「物語る欲望」に取り憑かれた動物、と言った方正確であろう。自ら体験した出来度とあるいは人から伝え聞いた出来事を「物語る」ことは、われわれも多様で複数な経験を整序し、それを他者に伝達することによって共通するための最も原初的な言語行為の一つである。

 

p.19

人間の経験は、一方では身体的習慣や儀式として伝承され、また他方では「物語」として蓄積され語り伝えられる。人間が「物語る動物」であるということは、それが無慈悲な時間の流れを「物語る」ことによってせき止め、記憶と歴史(共同体の記憶)の厚みの中で自己確認(identify)を行いつつ生きている動物であるということを意味している。

 

まとめ:「物語の衰退」の一因は文字の普及と印刷術の発達にあった。

 

⑵声と文字

「音声言語(parole)と「文字言語(ecriture)」

p.31

音声と文字は、言うまでもなく「意味するもの(signifiant)」と「意味されるもの(signife)」に属する。→ソシュールの見解に従う。両者は切り離すことができない。

 

だが、音声や文字が伝達過程において機能し始めるとともに、「意味されるもの」はその過程を通じて無限に反復可能な「同一の意味内容」として理念化あるいは抽象化される。

 

p.36

しかし、音声言語によるコミュニケーションが「声」によって媒介されるものである以上、その及ぶ範囲は空間的に限られており、追理解の連載はたかだか同時代人の集団を包摂するに留まるであろう。

 

フッサールの話『幾何学の起源』ルソー『言語起源論』

 

⑶「話者の死」から「作家の死」へ

「情念」「感情」「表現」<>「正確」「観念」「理念」

p.48

以上のような言語行為論の構造の中では、「物語る」という行為は、当然にも逸脱例として考察から排除されざるをえない。物語ることは詩の朗読と同様に、話者のまじめな糸の裏打ちを必要としてはいないからである。しかし、われわれが求めているのは、「物語る」という行為を逸脱例として排除するのではなく、むしろそれをわれわれの多様な体験を整序し、他者に伝達する最も原初的な言語行為として位置づけることができる言語論の構造である。そのためには、まず言語行為を「話者の意図の現前」という根深いオブセッションから解放することを試みなければならない。

 

p.49

音声言語と文字言語との根本的差異

発信者(話者)と受信者(聴者)の「現前(presence)」と「不在(adsence)」という対比によって特徴づける。音声言語による遂行的発言が、発信者と受信者の知覚的現前を必要条件としているのに対し、文字言語によるコミュニケーションは、むしろ受信者の「根源的不在」を条件として成立するからである。→「遠隔通信(telecommunication)」という概念

 

p.57

バルトは小論を「読者の誕生は「死者」の死によってあがなわれなければならない」と結んでいる。(省略)彼は「作品」と「作者」との特権的関係を「テクスト」と「読者」との匿名的関係で置き換えることによって、「内面的意図」に意味作用の起源を求める言語論の構造を根底から覆そうと企てたのである。

 

まとめ:音声言語と文字言語との対比を軸に、言語表現の意味を独占的に規定してきた「話者の意図」および「作者の意図」という特権的中心を解体-構築した。

 

⑷「起源」と「テロス」の不在

p.63

「紙と文字」を媒体にして密室の中で生産され消費されるのが近代小説であるとすれば、物語は炉端や宴などの公共の空間で語り伝えられ、また享受される。小説(novel)が常に「新しさ」と「独創性」とを追求するとすれば、物語の本質はむしろ聞き古されたこと、すなわち「伝聞」と「反復性」の中にこそある。独創性(originality)がその起源(origin)を「作者」の中に特定せずにはおかないことに対し、物語においては「起源の不在」こそがその特質にほかならない。物語に必要なのは著名な「作者」ではなく、その都度の匿名の「話者」であることにすぎない。

 

⑸ 解釈装置としての「物語文」

p.76

「カタル(語る)」は、根源的には「カタドル(象る)」に由来すると言われている。それでは何を象るのかと問われれば、「経験」と答えるのが最も適切な応接であろう。言葉はわれわれの経験に形を与え、それを明瞭な輪郭をもった出来事として描き出し、他者の前に差し出してくれる。本人にのみ接近可能な私秘的「体験」は、言葉を通じて語られることによって公共的な「経験」となり、巡らされた言語的ネットワークを介して「経験」を象り、それを協同化する運動にほかならない。

p.83

物語文とは、時間的前後関係にある複数の出来事を一定のコンテクストの中で関連づけるような記述である。それゆえ、コンテクストが変化すれば、過去の出来事の意味づけもまた変わらざるをえない。

 

p.85

経験が習慣的体験にはとどまらない時間的広がりをもつものである以上、現在の経験は否応なく過去の経験の解釈の歴史を背負っている。そして、経験は「物語る」ことによって初めて経験となることをここで思い起こすながば、物語文と並んで物語もまた「経験の解釈装置」だと言わねばならない。

 

p.86

だとすれば、「物語の衰退」は同時に「経験の衰退」をも意味するはずである。

 

第2章 物語と歴史のあいだ

p.91

⑴「語る」と「話す」

「語り得ないことについては、沈黙しなければならない」。ウィトゲンシュタインは『倫理哲学論考』の掉尾をこの簡勁な一句でもって締めくくった。

 

p.92

「話す」が語り手と聞き手の役割が自在に交換可能な「双方向的」な言語行為であるのに対し、「語る」は語り手と聞き手の役割がある程度固定的な「単方向的」な言動行為と言えそうである。視点を変えれば、「話す」がその都度の場面に拘束された「状況雨依存的」で「出来事的」な言語行為であるのに比べ、「語る」の方ははるかに、「状況独立的」であり、「構造的」な言語行為だと言うことができる。このことは、語源的に「話す」が「放つ」に由来し、「語る」が「象る」に由来するという事実からも、一つの傍証が得られるだろう。

 

⑵言語行為と物語行為

p.97

「話す」はその相互行為的、他者指向的、現場拘束的といった性格からして、他の四類型の総称と見なされるべきものだからである。

 

p.101

言語行為が未来投企的であるのに対し、物語行為が過去構成的であるという対比は、両者の言語行為から明らかである。

 

第4章 物語の意味論のために

p.215

それゆえ、虚構の言述こそは、意味生成の現場における言葉の原初的な輝きを想像力によって取り戻そうとする、すぐれて創造的な言語行為にほかならない。そして人間は「言葉を語る動物」であるとともに「虚構を騙る動物」であるがゆえに、われわれは否応なしに「虚実皮膜のあいだ」のあやうい境界に生を営む存在なのであり、人間的真実はその境界の上にこそ開示されるのである。