ネコの手を借りるより、ネコの手にフミフミされたい

好きだから、自分のできる全力を尽くして努力した。楽しいから、過程がどんなに辛くても一つの歓喜として意味づけして自分をフォローした。しかし、目前の結果から、それは自分では到底できなかったことだったことに気づく。手をつけただけで、何もできてないことに脱力感を感じている。これが自分の限界だろうか?

 

あまりにも忙しなくて、それをちゃんとやりこなしていない自分に眩暈がする。鬱なわけではない、楽しくないわけでもない。むしろ、楽しいし幸せである。ただ、自分の期待に自分の手のつけたことが応じてくれず、私はただの欲張り者だったことに気づく。

 

頑張れば報われなくても、自分なりに納得のいく終結に至ることができる、と信じてきた。いや、自分の働きかけに世界は何らかの形で応じてくれるもの、と信じていた。しかし、実際はそれとは異なった。世界は必ずしも私の足掻きに反応してくれない。世界はあまりにも広闊で、私はあまりにも小さくて刹那だ。世界にとって私は瞬く間に消えていく存在であろう。人間的時間というまなざしで、世界を眺めてしまう。そこからどうしても逃れられない。

 

自分がつくったものに、自分が見事に食い込まれていく。なんてバカバカしいことだろう。ここから離れたい、自由になりたいと思っても、自分の属した社会の見えない引力でまた戻ってきてしまうし、そこでしか自由が得られないと思い込んでいる。ここでしか味わえない匿名性、そして何かを成り遂げたという達成感。私は今それらの奴隷になっているのかもしれない。

 

ヘーゲル弁証法が思い浮かぶ。ヘーゲルは人間の歴史を、主人と奴隷の弁証法と定義した。私の生もその弁証法の中でしか続かないものだろうか?応じてもらうことは、期待してはいけないものだろうか?

 

自分の限界を目の前にして、その越え難さをしみじみ実感している。今までは愛するものを第一に優先したが、もう力尽きたかもしれない。何かを愛しているかより、何かを諦めるべきか悩む自分となった。