足で歩いて、息をする

今日は素敵な本のタイトルと出会えた日だった。『関係から始まる』『足が未来をつくる』

 

そうだね。やはり学びは出会いや関係から生まれるものだと思う。研究会に入りたての頃のわたしは、少し軽率で、マナーを守ろうとはしたが、心からその人をその人として見れなかった。しかし、研究会のみんなと場所や時間を共有することで、自分がいい意味で大きく変わった気がする。結局、わたしは自分一人では生きていけない。周りの人の配慮や支えのもとで、地面に足をつけて息をしているのだ。輪読の話し合いの時に「旅」の話をした。忙しない日常からの解放、そしてそこからくる快楽。その快楽は再現性がなく、とても刹那的で、場所そのものである。ふと今が「旅」の瞬間ではないだろうか、と頭をよぎった。

 

(省略)←この部分については、後でもっと考えを洗練したものにしてから、丁寧に語ります。

 

今まで受けてきた恩を報いるために、わたしができることは、その学びを誰かに実践することであろう。余裕や余白を持って、相手と向き合う。考え方が合致しなくても、じっくりコミュニケーションしていく。ちゃんとその人の話を聞く。そして、時間の流れを待つ。それが誰かと共在するために、最も大事なことだと思う。たまに、わたしたちはついコミュニケーションを感情表現の道具として使ってしまう。しかし、コミュニケーションというのは、誰かと話すために、あるいは、わたしと相手の間にある空白をよりお互いの心地の良い間隔として調整するために使われるべきだと思う。それが成熟した社会・社会性ではないだろうか。

 

わたしは、誰かとコミュニケーションを取るとき、お互いの波長を統一したものにしようと、焦ってしまうところがある。だが、別に同じ波長ではなくてもいいと思う。むしろ、異なる波長のままがより自然的なのではないだろうか。より余裕をもって、相手の呼吸に耳を澄ませる必要がある。そうすることで、わたしたちの間での空白を尊重するのである。相手の足や息が語ってくれることに、より純粋に聞き耳を立てる必要がある。

 

わたしが勉強する一つの歓びは、知識を学んでこそ生まれる知恵に報われることがしばしばあることだ。知恵というものは、関係から湧き上がる性質を持っている。相互作用によって知識は洗練され、知恵という職人の作品のようなものに生まれ変わる。その知恵は、わたしに動物的な快楽を与えてくれる。「このために生まれたんだ」「社会的な縛りに限られず、自由にそして純粋な目で人を見ることはこんなに楽しいことなんだ」

と自分の中で無意味な自然的なものを自分なりに結びつけ、意味を付与する。広大な宇宙空間で、一つのほこりにすぎない自分が、自分なりに世界に秩序や意味をつけ、気楽に生きることがなんて嬉しいことか、わたしは簡単に形容できない。

 

社会の中で生まれ、その中でしか生きていくしかない自分が、自然における一匹の生命体としても生きていけることは、本当に嬉しいことだ。解放のためには、そのための情報が必要である。

 

より純粋な目でこの世界を眺め立ち去ることがわたしの目標である。自分の存在が自然界においては非常に刹那的なことを生かして、自然の神秘さに驚き続ける人生を送りたい。これがわたしが学問をする動機である。