余裕ねぇかよ

余裕と優雅はどこか似ているところがある。

 

ここ最近は、生理の直前ですごく大変な一週間だった。普段はビクともしないことに敏感になって、思ったことのまま、わがままに行動してしまったし、本も勉強も読めなかったしできなかった。少し反省はしているが、そこまで反省しなくても良くないか?とも思っている。そんな日々もあるから?これもわがまますぎ?そんなところも許して。私もそんなところ許すから。

 

見た通り、結構情緒が不安定である。この一週間の目標はこのメンヘラな自分とうまく付き合っていくこと。

 

しばらく日記を書いていなかった帰り道で、「自分の意見も持つことの大変さやジレンマ」について考えていた。自分の意見を持つには、なんらかの信仰が必要である。また、その信仰を持つには、なんらかの情報が必要だ。ここで言う情報とは、多数や権威者によって、それが正しいとみなされている、公認された情報である。私はそれを本や大学の授業を媒介にして学習する。なぜそうするかと言うと、今までそう育ってきた、あるいはそうしてきたからだ。そして、それに基づいて、「このような考えを持つことはごく妥当で正しいことだ」という信仰、ある意味思い込みを持つのである。そして、他方、「このように考えないのは正しいとは言えない、あるいは勉強不足だ」という信仰も同時に持ってしまう。なぜそのような思考に至ってしまうかと言うと、私はその知識を手にするために「一所懸命に」自分の労力をかけて取得したからである。

 

今までは疑うこともなく、これを無意識の中で実践してきた。しかし、最近の自分を振り返りながら、なんだか違和感を覚えた。あまり人のことについて愚痴を言わなかった自分だが、ここ最近は結構愚痴を言っていたからだ。たとえば、意見や態度が薄っぺらいなどがある。

 

私は、自分のかけた労力を、人を自分の軸によって決めつけてもいい名分として誤解していたのではないだろうか?なら、非常に悍ましいことである。また、公認されたかと言って、それが本当に正しい知識だとは言えるだろうか?人の論理はそんなに簡単に信じられるものだろか?そして、そのような知識を持つことによって、自分の生活の周りにいる人を簡単に馬鹿にしてしまうのなら、私は勉強する資格がないのではないだろうか?

 

もちろんsfcにはしっかりとしたカリキュラムがない分、勉強を自由に・あるいはわがままにしている人が多いのは否めない事実である。しかし、それが自分のわがままな行動の理由にはならない。多様な人が居合わせる場所なのである。それを認めて、自分とは異なる人を余裕を持って尊重する必要がある。余裕を持ってという表現を使ったが、それには私と相手には余白があることを認め、その余白を余白のまましておくことを意味する。そして、自分の愚かさについても鋭く省察する必要がある。知恵を持つこととは、このようなことではないだろうか。

 

だからと言って、マナーのない人まで親切に対応する必要もないと思う。私は余裕をすべてを許す寛容さとして使っていない。自分を自分として立たせる居場所を確保しつつ、相手のスペースを尊重する心のゆとりとして使っている。

 

今回のことで、学校という場所がその余裕を育ててくれる場所ではないことがわかった。学校では教えてくれない(教科過程では)何かを学ばないといけない気がする。そのような学びは、きっと関係の中で生まれることだろう。私の卒プロは、学びの哲学にもつながるだろうか。

 

最後に、文章の始めを余裕と優雅は共通する部分があるという言葉にしたが、そうした理由は、どちらも「要らない(必須要件ではない)」という性質を持っているからである。優雅も余裕も「最小限」の概念ではない。どちらも贅沢による剰余が必要である。優雅の場合は資産、余裕の場合は時間や心理的なゆとりであろう。一見無駄のことのようだが、私はこれを人の生活の中に必ず必要なものとして考えている。しかし、贅沢による剰余を前提条件として求めるため、非常に現実可能性の低いものだとも思える。これについてもっとじっくり考えていきたい。そして、研究したいと思っている。難しいな。一度スケッチブックに自由に考えを書いて考察してみよう。