buttercup and butterfly

透明愛好家さんの音楽を聞きながら、日記を付けるこの時間が大好きだ。季節の変わり目で少し冷えて指先で、多分5歳から覚え始めたアルファベットを軽く叩き起こす。画面に表示されるのは、日本語だ。RはなぜRと書いて、アールと発音するようになったんだろう。そこになんらかの背景という物語があるのだろうか。習ったことないな。一見なんの意味も持っていなさそうな文字を羅列して、ある事実を指す言葉に変身させる。butterflyになるか、flyになるかはわからない。でもやはり誰かの心をくすぐる蝶々になってほしいな。万物にやさしい必要はないが、心構えくらいはこれでいいかな。

 

今日はどうしても眠気から逃れない1日だった。シャワーを浴びても出かけても、眠さやだるさはわたしのそばに。365日の中、このような日があっても良くないか、と思い、だるくて少し落ち着いた今日を楽しむことにした。嬉しいことが必ずしも楽しいことではない。嬉しくなくても、面白くなくても、わたしが「そうであってもいいよ」と認めたなら、それは自分にとって楽しいことだ。言葉が思った通り出なくても、時間の流れが思ったより早くても大丈夫。そのような日があってもおかしくない。そのような日があるんだーと認めればいい。帰り道の空気は、少し冷たくて風邪を引くのではないかと心配したが、明日のことを同時にぶっ飛ばしてくれるクールさがあった。そのクールさに自分の困りごとを乗せて、くしゃみのような微量の粒子に生まれ変わらせた。また新たな生命や存在になるだろう。

 

最近グループワークを怠っている気がして、バイトがてら渋谷から表参道エリアを歩いた。全学期で実感したことだが、渋谷には「見えず抗えない流れ」がある。確かに形態はないが、生きているように動き、生命体に大きな影響を及ぼしている。いわゆるシステムというものだろうか。今日は雨の日だったため、傘を持って渋谷を歩いた。そのおかげで、渋谷の流れの速さにより敏感に実感できたかもしれない。そして、渋谷は傘をさすことすら簡単ではないまち(都市空間)なのがわかった。隙間もなく確保された最適空間に自分の身を合わせて、渋谷が決めた、あるいは渋谷を利用する側の人びとが決めた、あるいは渋谷を設計した人々が決めた、速度でまちを歩かなければならない。まるでヒトの血液循環のようだ。JR線の改札口のところを通るときは、このような疑問に駆られた。今ここを利用している人も誰かの友達、家族かもしれないのに、なぜこんなに障害物として感じられるのだろうか。確かにある人間としては認知されるが、その人びとに向かって日常の自分みたいなことはできないなと思った(笑顔で話をかけるなど)。そして、渋谷の利用者を観察しながら、ほぼ全員が「カバン」を持っていることがわかった。ビニル袋、クロスバック、リュック…。このことから、みんなある程度の目的や荷物を持ってここに来ているだろう、と推測できた。おうちの近くとは、出かけとしてのレベル(準備時間や服装の側面で)が異なる。

 

血液みたいに絶え間もなく、流れてゆく渋谷という場所。自分の楽しみたいスピードでコンビニスイーツ(ある程度のモビリティーが備わったもの)を食べることすら許されない渋谷。早く食べ切るしかない、自分よりシステムを優先しなければならないまち、渋谷。オカモチを使って、その流れから離れて、ちょっとした憩いの時間が楽しめれば、と思った。まだグループの人には共有していないからどうなるかはわからないけれど。わたしは渋谷を歩いてこう感じた。

 

かけがいのない、余裕を大切にしようと。焦りの気持ちが現れたら、あくびや深呼吸をしている。

 

昨日の日記から生まれた疑問。学校の教育を受けたとて、「いい(公平な観察者を備えた)」人になるかは知らない。どのような教育こそ、わたしたちを自由にしてくれるのだろうか?さらに、真の意味でお互いを支え合う社会になるために、わたしたちはどのような場所やコミュニティーを求めて作るべきだろうか?性善説性悪説は置いておいて、多様な人間を社会はどのように受け入れ、調和していくべきだろうか。システムの相互依存性は、どのように改善していくべきだろうか?一見思い浮かんでくる答えは、響きのいい言葉の並べであまり納得いってない。資本主義に基づいた回答を欲しがっているのかもしれない(現実可能性のある、あるいは人間の利己的な側面が反映された)。